昭和41年12月31日 除夜祭 テープ№41-143
このお話をさせて頂く。させて頂くほどの、聞く方でもそうですけれども、かすかにでも、この、テープレコーダーに音がウーンという、もうそれは、もう、本当にわずかな訳なんですけれども、その、耳障りになってからいけません。皆さんには聞こえないかも知れません。私ぐらい耳が遠かっても、これが聞こえる。だから、それがもう変わってから、お話の方に障るという。
もう、不思議なことですね、音という、ね、かと言うて、その音を聞いておってから、心が楽しゅうなったり、豊かになったり、有り難くなったりすることがございますでしょうが。ね。私は、今日初めて、私が祭主を仕えさせてもらいますから、祭主一人が、あの、お払いを、いわゆる、大幣行事が、私一人のために払うて頂いた。初めてでございましたけれども、こう、頭を下げさせて頂いたら、上で、それこそ、神風のような音が致します。フワッ、フワッ、フワッとこう、しでのさやぎの、それこそ、さやさやに響いて行く、その音というのは、もう、何とも言えん、もう、胸がいっぱいになって、感激致します。
皆さん、今日の大払式に、あの、しでのさやぎを聞かれ、また、お払いを受けられてから、そういうような、有り難いなあ、払うて頂いたということをですね、有り難いと感じられたら、もう、このお祭りのいわば効果は十分あったわけでございますね。ね。
ですから、どうぞ、私の今のそれを感じられなかった人は、(ここの 一点でも? )、まだ、あの、後残っておられる方達のために、(まあ、どっちかち言うなら上げたその棚に?)あの、私は知りません。( )におったけん。私が本当におかげを頂いたからです。今日は、もう、あれだけでいい、もう、あれが御理解なん。ね。
昨日、昨夜の御理解だったでしょうか。ええ、大払式というのは、だいたい神道から来たもんです。ですけれども、金光教がやはり、神道本局に属しておりましたから、やはり、その神道の形というものが、やはり取り入れられたまま、しかもそれが、もう、そのまま神道の者が着ておる物もありゃ、それを金光教的に直すところもあるといったような(願い状を書いてくださったですね?)。ですから、拍手を打ったり、お三宝を使ったり、八足を使ったり、もう、小道具全部が、いわゆる神道に習うたものでございます。
ですけれども、そんなことは、だいたい教祖の神様の御信心は、無頓着。問題になさらなかった。般若心経をあげられることもありゃ、御線香を立てられることもあった。ね。また、いいですもんね。当時、あの般若心経でも、心の底からあげておりゃ、心がそれこそ大払いをあげるとと同じように、(ろっこんせいじょう?)、そんな気持ちが致します。
お花でもあげさせてもらい、御線香でも立てさせてもらうと、あの良い香りが、本当こう、拝領を致しております者の体を通して、何とはなしに、良い気分が致します。その良い気分がするということが、まあ、有り難いのですからね。ですから、あの、柏手をさせてもらう。その柏手の音にでも、心がちゃんと清まるような気が致しますように。
今日の、だいたい、大払式というのは、そういうような、私どもが一年中に侵してきた御粗末御無礼、いわゆる、不浄汚れといったようなものを払うて頂くという式なんです。なぜかと言うと、明日の、ね、その元旦。明日の御正月が大事だからなんです。ね。元日の気分は、いよいよ好調、いよいよ有り難い、めでたいものにするために、今日は、明日のいわば演出をするわけなんです。ね。
まあ、一つの演出なんです。ですから、どっちかと言うと、金光教的でございませんから、ある時に甘木の御弟子さんか御信者さんかが、甘木の初代にお尋ねされた。先生、だいたい、大払式というのは、お道の信心には、この、だいたい、こう、(そびらない?)ようなものを感じるのですけども、やっぱ、あれはしたら、その、しても何かなるもんじゃろうかと言うて、訪ねられた。
ところが、甘木の先生が仰ったというんですよね。そうな、せんよりかよかばい、ち言わっしゃった、大払式はですね。大払いを受けることも、させて頂くことも、お祭りを頂くこともです、お参りをせんよりも良い、大払いを受けないよりも良い。
私は昨日、そのことについて頂きました。ああ、今日は大払式だ、と。今日は、まあ、現在では、だから、その、そういう仕来りが残っておりますから、これを途端に止めるわけに行きません。ですから、何を変えなければならんというので、その、一年中の御礼のお祭り、お詫びのお祭りということに、現在ではなった。ね。お詫びのお祭り、お礼のお祭り。
同時に私は、そう思うんです。ね。やはり、大払い、いわば、その、やっぱり、お払いをして頂く。で、その事によって、私どもの心が、いくらかでも有り難いものを感じる。ね。何とは知らんけど、本当に、例えば、今日一日の私のそのご無礼がです、私が(一人ひとり?)、こう、払わせて頂く時に、あの風のさやぎに、それこそ、そのまま清められていく気持ちが致します。
それが、私の心の中に感激になって高まってくるのです。ね。ですから、その、そういう内容と、それからもちろん、お礼とお詫びとということになると同時に、明日のお正月をいよいよ、有り難い、おめでたいものにするために、今日の閉めと、こう言う。日が暮れたら大晦日と思うて、ね、夜が明けたら元日と思うて、日々に嬉しゅう暮らせば、家庭に不和はない、と。
そういうような、例えば、御在られ方で、教祖の神様はお過ごしになられた、と。ね。私どもの場合は、そう在れと、こう言うて下さるのですけれども、やはり、大晦日の時には大晦日の時だけの気分であり、元日には元日だけです、それを長く持ち続けることが出けない。ね。そこんところを、私は思うんですけれどもね。一つおかげを頂きましてから、いつもその元日のような気持ちで過ごさせて頂けれるおかげを頂かなければならんと。
そこで私は、やはり正月をいよいよめでたいものにするために、様々な演出を致します。もう、去年使うておった物も、全部新しく換える、お花も換える。ね。大掃除もする。食べ物でも、普通食べないような物を食べる。ね。そして、( において?)、もう、今日は腹を立てちゃならんぞ、今日は、その、ロクソなことを言うたり、したりしてはいけんぞと言うて、まあ、正月の気分を楽しむわけでございます。
ですから、それはみんな、一つの演出なんです。ね。そのために、前の晩から、こうやって、その、払うとこに払う。片付けるとは片付けておいて、もう、とにかく、心置きなく、明日の正月を迎えられるように致します。ね。そういうようなおかげを頂かせて頂くために、やはり、大払いは大事。
この頃、私は思うんですけれども、私自身は本当を言うたら、もう、一つもあの正月もなからなければ、大晦日もない、そんな気分です。ですから、もう、普段着のままでも良いのであり、もう、このままでも良いのである。けれども私、今日は、もう、それこそお祭りの始まる寸前まで、ああもしとかにゃ、こうもしとかにゃいかんと言うて、言うならば、演出をしたわけでございます。皆さんが、そうではないから。
やっぱり、正月の気分を味わいたいから。やっぱり、大払い、一年中の、一年のお粗末ご無礼を本当にお詫びさせて頂きたいというような気持ちであられるから。ね。ここに入った途端に、はあ、明日は正月ぞと、今日、本当に大払い(が、まあ、して良かった?)という気分になられるように、まあ、お花もこういう風にあそこに生けておきなさい、お正月花。
ね、もう、あの、いわば、感じも、お広前の感じもいつもと違ったように、気分を新たにするために、そうして行けという、これが一つの演出なんです。私一人ならば、それは、もうしなくてもいいんです。もう、それはですね、本当に思います、私自身。ね。先ほど、ここでも、てんやわんや、いっぱい散らかしておるのでした。ちょうど、小倉の、ここの、富永さん達がご用でお出でに出てみえました。
もう、あの、自動車でじゃなくてから、もう直接、(くにおさんが、選び口ば言いよらした?)。新しい車を、今度はお買いになった。そして、それを、まあ、初参りをここへ、お礼お届けに出て見えたわけでございます。ですから、こちらに見える時にも、お電話がかかっておりました。ご両親を、家は揃うてから、今日はあの人が自動車で来るそうですから、どうぞ、被害ないようにと言うてから、お届けに見えました。
もう、それこそ、そうした今も中に、今日は、どうぞ無事にスムーズに、ここまで着かれることが出けた。三時間かかって、見えられた。ね。それから私、ばたばたしておりましたけれども、お届けをさせてもらってから、その自動車の中でいつも御祈念をさせてもらいますから、自動車の中で天津祝詞を一巻あげて、御祈念をさせてもらった。
●そしたら、御神眼にあの、自動車の中にいっぱい、あの、南天のね、南天のこう、しこっておるところを頂くんです。赤い色の南天。ね。本当にあの、こういうような気持ちというか、ね、皆さんが、親も家内も、皆が祈りに祈り、お取次ぎを頂き頂いて、今日ここに、こう来ておる。私は、その満天のことは、お取次ぎを頂くということだと思ったんです。
満天という、誰かがこの、お便所の脇にこう、植えるもんですね、だいたいは。お便所と言えば、まあ、ここは御結界のことをお便所と仰るのですから、この御結界の側で、その満天が生き生きと、青々と、または、(なりよるばっかりに?)、その、一つの熱情を持ってのというような感じで頂きました。一事が万事に、このお取次ぎを頂いて、そのお取次ぎのその働きが、いわゆる、車に乗っておる車の中いっぱいに、その働きを頂けれるようなおかげを頂いたら、これ、いつも無事安全でという事だろうと、こう思うた。
それから、久富しげおさんとこの長男が、くにおさんが、( )参って来よった。そして、今朝からお夢の中に頂いておることが、いつも、安心のおかげとはいかんでも、安全のおかげを頂かせてもらい、安全感の頂けれるくらいな信心はしなければならんということを、もう、本当に噛んで含めるように頂いております。皆さんは、どうでございましょうか。安心のおかげとまではいかんでも、ね、安全、ね、例えば、なら、今日は広道さんが来ておるけれど。
ね、父親が、お父さんが一生懸命信心してくれるから、ね、僕は何とはなしに神様のお守りを受けておるんだと思うたら、これは、まあ、一つの、まあ、言うなら安全感なんですけれど。それを全然、感じられてないとするなら、これはまだ、もちっと信心を頂かなきゃいけないことになりますね。いや、神様の間違い無さを、もう少し分からせてもらわなければいけないと思うですね。
そして、( にです?)、その安全感というのでも、頂けるためには、どういうような在り方になったら良いかということを頂いております。それはですね、例えて言うならば、御本部参拝のことをお願いさせてもらう。かと言うて、言うならば、御大祭のことをお願いさせて頂く。ね。何かそこに、神様事のことを思わさせてもらう。ね。もう、そういう時にはです、万事万端においてのお繰り合わせを頂いて。ね。
本当に、それが何の差し障りもないようなおかげを頂かせて頂けということであると、私は思う。ね。例えば、御本部参拝の時に、御大祭の時に、何か神様のご用という時に、いや、今日は神様のご用を、何かご用させてもらわねばならんという時にです、ね、そのことを願わせて頂いてです、ね、そのことを思わせて頂いて、なるほど、神様事には、神様がこんなにも言うことを聞いて下さるんだなあ、働いて下さるんだなあ、という体験だけは頂いておけ。そこから生まれて来るのが、安全感だということを頂いたんです。
ところが、明日は御大祭じゃけん、お参り、 )頂きますようにと言うてお願いをしておったのに、差し支えがあった。差し支えがあったから、その口実にお参りが出けない。こういうことでは、いつまで経っても神様は分からない。これは、私の体験ですけれども、これは、もう、私がどういう難儀な起こっておる時代の時でありましてもです、ね、こと神様のことであったら、もう、絶対おかげを頂いたんですもん。いわゆる、御本部参拝であるとか、さあ、御大祭のお供えであるとか。何か特別に教会の行事があるといったような時にはですね、もう、どうにも、何もない中からでも、神様がご用意して下さったんですよ。
御本部参拝で言うならば、旅費はなかっても、駅まで行けば、ちゃんとお繰り合わせを頂いたんですよ。行きがけの旅費だけは持って行って、帰る金がなかっても、ちゃんと帰りのおかげを頂いたんです。ね。だから、こと御本部参拝であり、こと神様がお喜び下さるといったようなことにお願いをさせて頂いた限りです、このことだけは、頂き抜かせて頂く信心をさせてもらいよった。
これからも絶対なんだから、ね、なるほど、神様がこんなにも絶対なものだ。ところが、私ごとをお願いさせて頂く時に私がならんとするならばです、これは、私ごとのその中に、神様の御機感にかなわないものがあるということを、まず悟れ。私が一番おかげを受けたのは、これでしたですね、修行中に。こと神様ごとであったら、必ず神様が言うことを聞いて下さるのに、こと大坪個人のことである時には、右が左、左が右になるのが、ね、この願うことそのこともです、神様のお心に添い奉るところのおかげを頂いたら、おかげが受けられるという確信が段々出けて参ります。
そこから生まれて来るのが、安心とまでとは行かんでも、安全感。皆さんがバスに乗られる時に、はあ、このバスはひっくり返りはせんじゃろうか、途中で衝突しはせんじゃろうかと思うて、皆さんが思われたら、もう、それは安全感じゃないです。けれども、あの駅の(とんや?)バスなら(とんや?)バスに乗らせてもろうて、運転手さんがちゃんとこうやっておるとですね、何とはなしに安全という気が致しますでしょうが。ね。
ところが、( )さん辺りの場合に、今日、お父さんが初めて運転する。その車で横に自分が乗らせてもらった。だいたいは、汽車でのはずだったんだけれども、それではあんまりだと言うので、自分は向こう、御祈念係で向こうにおられた。もう、それくらい、一生懸命御祈念をなさって来たん(じゃち?)。いいえ、もう、おかげでああやって、主人が思ったよりも上手でございましたから、ずうっと、普通の話どもして来ましたと言うけれど、心の中じゃそげな( )ですね。それは、お話の場合は、金光様金光様が、それこそ、瀬木さんじゃないけどもね、あの、としこさんが一番初めに( )、横で乗っといて、ずうっと、「ほら、としこさん、あっちからトラックが来たよ」ち言ってから、言いなさいました。あの善導寺辺りのこういうとこなんか行く時にはですね、窓から顔を出しとる。そしちから、向こうトラックが来よると、( )と言うて下さいましたよ。そのくらいにあると思うんです、ね、これはよく、まだ安全感が出られない。いや、むしろ(後ろは、少ない?)ないわけなんです。
ね、(京都?)の皆さんは、ご主人を信用しておられたから、まあ、お話どもしながら来られた訳なんですけれども、そのことも、やはり親の祈り、いわゆる親先生の祈りというものが、あの自動車の中にいっぱい南天が、ね、こうやってしこっておるようにね、その、あるから安全の気持ちでここまでおかげを頂くことが出けた。ね。
ですから皆さん、安全感の頂けれるところまでは、一つ信心を進めなければいかんのです。ね。ですから、なら、御造営なら御造営ということはです、もう、これは誰が何と言うても、神様が先頭に立っての御用、あの御造営であるとするならばです、それに奉賛させて頂くということは、もう、絶対のものでなからなきゃならんのです。ですから、この御造営のことに、こういう御用が頂きたいと言うて願うたならです、その願いが成就するところまでは、一つ頑張ってみなければです、神様も言うことを聞いて下さらんということになるんです。
まして、自分事なんか、(まず?まだ?)聞きなさらんのじゃろうかという気がするんです。そこに、安全感どころか、信心はしよるばってん、不安でたまらない、心配でたまらないということになるのです。ね。ですから、本当に、神様のいわば、これはもう、お心と言うか、神様のお心があの椛目の場合は、御造営なら御造営という形になってるのでございますから、御造営が始まって、どうぞ私をこういう御用を頂かせて下さいと願うたら、その御用を上回るような御用がさせて頂けるくらいな、なるほど神様事にならば、こげんも言うことを聞いて下さるんだというです、体験だけは頂けるということを、今日、熊谷さんは頂いております。
今日は、朝、本当にあの、年末、今晩からまた私が一週間お願いさせてもらってから、元旦の経緯というかね、今年一年の、信心の方針といったようなものを、それぞれお夢の中にでもお知らせ頂くようにというお願いをさせてもらうんですけれども。今日は目立って多かったのはですね、年末のことでした。年末の締め括りということについて、もう、本当に噛んで含めるように( )おられましたですね、皆さんが。ね。どうかひとつ、おかげを皆さん頂きましてですね。
ひとつ、神様の前に言い訳をせんで済むおかげを頂きたいですね。もう、神様の前に、言い訳は言うても聞かんのですから、神様の前に、こうでしたからという言い訳をせんで済むおかげを頂かなきゃいけません。もう、言い訳ぐらい神様にですね、もう、嫌な感じが響いて行くものはありません。お参りしようと思いよりましたけども、こうでしたという、もう、この言い訳はいけません。
もう非常に、それこそ、神様が(ずっとこびらしなさいますよ?)、言い訳は。本当ですよ。言い訳はいけません。ね、お詫びをするより他にありません、はい、と素直に言うより他にありません。お祭りがあって、お礼と、一年中のお礼と、一年中のお詫びと、同時に大払いを受けさせてもらったその一瞬ではあっても、その一瞬のすがすがしさと、有り難さというものが、それで清められてしまうわけではないけれども、ね、そういう神乍ながらな気持ちを持ってお詫びをさせてもらい、お礼を申し上げてもらい。
たとえば、私がこうしてお説教台に立たせて頂いて、長い時間お話を頂きまして、その、皆さんも頂くことが出けない。その間、真剣に皆さんはどういう風に思われたり、なられてたでしょうか。ね。一生懸命に皆さんも、確かにお詫びがあったことであろうと思います。
どうぞ、そのお詫びがね、神様に通うお詫びでなからなければ、お礼を神様が嬉しと(みそなわす?)ようなお礼でなからなきゃ。同時に、お払いを受けさせて頂いた、この清々しさというものを、そういう、神様がお詫びもお許しも聞いてくださった、と。ね。そして、清々しい気持ちでお正月を迎えさせて頂こうというのが、今日の、椛目の前夜祭の内容でございました。
どうぞ、今、私がここで立たせて頂いて、ずいぶん長い間の時間を、どうぞ無駄にしてはいけません。無駄ではなかったと思うですけれども、私も真剣に、いつものと思うのに、目が、こう、目が回うようにありました。おかげで、今、ちょっとすっきりしとります。どうぞ、やはり、何かお気付け頂きよるとじゃろうと思いますけれども、やはり、お詫びをする以外にありません。どうぞ皆さん、(ここでも?)お詫びさせて頂いてですね、神様が許して下さったと、お礼を聞いて下さったという気分でなからなければ、明日もいよいよ、皆さんが演出してでも、めでたい気持ちになろうという、めでたい気持ちにもなることは出来んと思うですね。どうぞ。